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日本の世間には,今でも「ハラキリ」が生きていると思います.ミスがなくても,面子を潰されたと感じた権威者の気分しだいで,立場の弱いものは,激しい叱責の対象になる.謝罪文を書けとか,辞表を提出しろといった,完全にその人の地位を貶める形でしか感情の鬱積を解消できない人を野放しにしておく社会の枠組みで,どうして患者の自立を育てていけるでしょうね.
バンザイクリフは悲劇で終わらせてはらない.異なる意見をもつことこそが,変革の時代,急変する社会状況の中を生き残っていく人間性の遺伝子を育んでいける母体となることを学び,和の社会というタテマエに潜む縦社会という実態を乗り越えていくことこそが,情報社会の現代における,組織改革を生き残っていく道であると,私は考えています.
異なる意見を活かせる集団こそ,変化する状況に適応的である.大切なのは,みんなと同じ意見ではなくて,法とルールを守る行動を自分の判断と意志でできる,人間としてのそれぞれの尊厳であると私は思います.それを尊重し,育てていくことが今の日本の世間的な枠組みにおいて,自然発生的に生まれでてこないものであるならば,その状況に,癒しの光を当てなければならないでしょう.誰も傷つけず,しかし,くぐもった調和の本当の姿を直視することで,無知と傲慢を悟るときに嫌な思いは味わわなければならない.構造改革が,後先を考えずに進み,最も守られなければならない,最も弱い立場の人たちの権利にまで侵食する事態になる前に.
誰かが何かを失敗したり、大きな間違いを犯してしまったのなら、その人がどうすればそれに適応できるのか、どうすれば改善していけるのかを考え、その人の学習と成長のために協力することこそが、文明のとしてのあり方だと私は知っています。しかし日本の人はそれを知らない。人を罰し、苦しめ、こき下ろし、否定するか、それとも祭り上げるか賞賛するかの両極端。今でもハラキリ。それを生きている自分たちをこそ、恥であると実感し、そこから日本文化ではなく日本文明を立ち上げる道を歩いてください。私はこれ以上日本語圏に何をするほどにも、好きではないし、何よりも2度、3度にわたる不正行為の犠牲になってきた経験があります。私は「許すが決して忘れない。」私が忘れないでたち続けるのは、私以外の誰かが同じような状況に陥ったときに、それを助けることができる方法を探し続けるためです。私は自分だけのために生きているわけではない。それを知っている。どれほどまで日本の人たちが私の言説を表面から否定し、論理を構成できない曖昧な思考から批判を繰り返しても、私は確かに知っている理解から自分の自尊心を自ら立ち上げて行く、人類の本当の継承者として自分があることを確信しています。そして誰も傷つけず、真実を創りあげることで時代を少しずつ変えて行く。和よりも倭よりも真実にひれ伏す。自分と他者にとって同じ相違を結ぶ事実を目指し、その系に準じること。それこそが本当の謙虚さです。いつの日にか、日本の人たちが自ら、本当の礼儀、本当の謙虚さ、本当の心に立ち戻ってくれることを、私は願っています。